シンガポールの教育事情から

 私事ですが、シンガポールの学年度の変わり目に当たるこの時期、シンガポールで教育を受けている甥と姪のきょうだいが我が家に滞在中です。姪のクラスメートが世界中のあらゆるところでバカンスを楽しんでいる様子が刻々とインスタグラムで伝えられ、姪はたびたびうらやみの声をあげています。

 シンガポールと言えば、アジア随一の経済国で高水準の教育が行われ、落ちこぼれもいない、などの評判(噂?神話?)がありますね。実態はどうなんでしょうか。日本と大きく違うのは、小学校を終える段階で高等教育向きの子か否かのセレクションがあり、4年制の中学、2年制の高校を経て(さらに男子は2年間の徴兵期間を経て)国立大学を頂点とする大学へ進学するエリート層養成コースと、そうでない中間層や技能層養成コースなどに分けられるようです。合理的なのか非情なのか、日本人的感性ではなんとも言えませんが、私が最も大切だと信じる「言論の自由」がない国ですから、日本的な「職業選択の自由」や「法の下の平等」の発想も通用しないのだろうなと思います。姪の数学学習を見ると、中学4年(日本の高校1年相当)で日本の高校での履修内容の大半を終えている様子です。日本では関数電卓というものを大学進学後に初めて扱うでしょうが(iPhoneの機能にはありますが、経済系以外の文系学生には一生縁がなかったりするのでは?)、姪たちは小学5年生から使います。また、姪の中学ではパソコンは必須アイテムで宿題もノートパソコンなしでは何もできないようです。日本では計算力を鍛えるためなのか、大学入試でも未だ電卓すら持ち込み可にはされていないですね。演算能力だけに関しても人間の能力は所詮機械には敵わないのですから、文部科学省は旧守的とも牧歌的とも思える今の中等教育のあり方をいつまで墨守するのだろうかと訝しく思います。

 思えば、現政権は大学の文科系学部を「すぐ役に立つ」ものへ改編しようと目論んでいるようですが、すぐ役に立つことはすぐ役に立たなくなるとも言います。学問の府たる大学では、哲学や文学など時代を超えた普遍的価値をしっかり守る頑固さと、時代の進展によって変えるべきことは速やかに変える柔軟性とを持ち合わせてほしいと願います。

 

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