【オリンピックで見た人間と技術のあいだ】
日本選手団が怒濤の活躍を果たし、史上最高のメダルを獲得したリオデジャネイロオリンピックが閉幕しました。市民レベルでもみな寝不足だったり、なんとなく心理的な虚脱状態だったりの後遺症もあったりします。さて、しばらく間を置いてパラリンピックも開かれます。こちらにはさらに胸を打たれる人間ドラマが伴っているでしょうから、当分また歓声と涙の沸き起こる日々となりそうです。
五輪閉会式で安倍首相がスーパーマリオに扮しての登場で、国内外に様々な驚きがもたらされたようです。日本のポップカルチャーに便乗することの良し悪しはさておき、このようなAR(拡張現実)技術が、肉体の限界へ挑むパフォーマンスを17日間にも渡って見続けた私の眼に与えたある種の違和感、これは一体なんだろうと考えました。日々のトレーニングや本番での戦略・戦術構築にあたって、データ収集分析にIT技術を駆使することは当然とも言え、そこには特に違和感を感じることはありません。が、本番でのパフォーマンスそれ自体は太古から人間が培ってきた身体能力そのものの発現であるがゆえ、古今東西の人間が努力し続けてようやく、体ひねり半分とか、数十分の1秒、あるいは数cmという具合にほんの少しずつ記録を更新していく、その計り知れない努力の結晶を垣間見る思いから深い感動を覚えるのではないでしょうか。それを一気に飛び越えてしまう魔法のようなAR技術。錯覚といえば錯覚なのでしょうが、脳がインプットする情報としては同じように処理されてしまいかねない、そういう怖さを本能的に感じたのかもしれません。
AI(人工知能)が様々な職域で人間に取って替わるのではないかと期待と不安が入り混じる昨今ですが、スポーツの世界だけでなく日常のさりげない場面で「人間って良いね」「人間じゃないと困るね」ということにあれこれ気づいていけたら良いなと思います。