共謀罪のある社会

 行為がテロ目的かどうかという内心を基準に刑法犯として処罰対象とする、それを現実化する新法が、参議院での委員会審議・採択を省略するという極めて異例な形で成立しました。
これにより、これからの日本は、行為の外形が犯罪構成要件に該当するか否か、という客観的基準だけでなく、捜査機関の主観的判断によって犯罪の嫌疑を受けるかもしれない社会となります。そして、テロ防止の名の下に、時の政権に不都合な言動をとる団体も直ちに監視下に置かれる危険性があります。
このような恣意的運用の余地の大きい法を手にした犯罪捜査機関は、やがて嫌疑の対象を拡大させていき、その社会の表現の自由や集会の自由を萎縮させ民衆の力を削ぎ、強権政治に至ることは古今東西の歴史が明白に示しています。

 大正デモクラシーの時代に普通選挙法とアメとムチの格好で成立した治安維持法が、憲法学を始めとする学問研究を侵し、第二次大戦敗戦まで日本社会でまともな言論を封じ込め、無謀な戦争への反対意思表明さえ許さない社会へと塗り替えていったことは、まだ100年も経っていないほんの少し前の出来事です。もちろん、その時代の空気を直接味わった人は、もはやごくわずかです。でも、私たちは歴史を学ぶ中でその流れを確かに知っているはずです。では、中学や高校で歴史は学ぶのは何のためでしょうか。人間の来し方を知り、行く末に活かすためでしょうか。それとも、人間が同じ過ちを繰り返す愚かな生き物だと実感するためなのでしょうか。前者であるなら、歴史の教訓を活かせずこの共謀罪の成立を許してしまったのは私たち有権者の怠慢と言えます。後者であるなら、そんな愚かな生物集団は減少するに越したことはない、と歯止めのかからない少子化を歓迎するべきという皮肉な結論になりますね。いずれにしても、18歳以上の若者はもちろん、まだ選挙権すら持たない17歳以下の子供たちの生活にまでとんだ足枷をはめさせてしまいました。どうやって彼らに責任をとったら良いのでしょう。有権者として、一人ひとりの責任は大きいです。

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